はんべの政治とニュースブログ2

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【歴史】賤ヶ岳七本槍のその後

 
よく秀吉の話に賤ヶ岳七本槍の話は出てくると思う。 柴田勝家と秀吉との戦いであった、賤ヶ岳の戦いで秀吉の供回りだった 武将たちを指すのですが、実際は賤ヶ岳七本槍ではなく、九本槍であった。 桜井左吉は慶長年間に没し、この戦いの後さしたる功績は無かった。 石河兵助は戦いの最中に死した為、目立つことなく終わる。 その後、この様に石高は増えた。1598年時。 加藤清正=肥後熊本・25万石 福島正則=尾張清洲・20万石 加藤嘉明=伊予松前・10万石 脇坂安治=淡路洲本・3万3000石 片桐且元=摂津茨木・1万2000石 糟屋武則=播磨加古川・1万2000石 平野長泰=大和田原本・5000石 突出して清正、正則が大きい。 家康が政権を握る決定的なできごとは、関ヶ原の戦いであるのは、言うまでもない。このとき七本槍の面々はどのように行動したのか。当然、秀吉恩顧の大名である七本槍は、西軍に付きそうなものだが、西軍の総大将は、日頃そりの合わない石田三成。西軍に付けば憎き石田三成の下風に立つことになるし、東軍につけば、家康が天下人になるであろう。 七本槍の面々は、結局、糟屋武則を除いた6人が東軍につくことになる。このうち、福島正則は、関ヶ原の戦いに積極的に参加し、脇坂安治に至っては、小早川秀秋とともに西軍から東軍に寝返っている。関ヶ原のあと、糟屋武則は改易され、歴史の表舞台から姿を消す(後に500石で家康に召し抱えられる)。 残りの6人は、徳川政権下大名として存続していく。 とはいえ、石田三成が武断七将襲撃で殺されたとしても、この七本槍がすべてまとまって徳川に対抗したのかは不明。対抗したとしても、相手は250万石の家康。西軍に所属したとしても大変であっただろうな。 そして大坂夏の陣が終わり、天下泰平の世になると、 次第に旧豊臣家臣は、幕府から疎まれていく。 加藤家の他、1619(元和二)年、福島正則が広島城の無断修築を幕府から改易を言い渡され、信濃川中島に流罪になり、加藤嘉明も伊予松前から陸奥会津に転封加増となるが、ひ孫の明英に嗣子無く、末期養子というかたちで大幅減封後、近江水口に転封となり、明治を迎えることになる。  七本鑓の中で、江戸時代一番繁栄したのは、脇坂家である。江戸後期には老中も輩出するなどした。賤ヶ岳七本鑓の面々は、秀吉政権とも栄え、ともに衰退し、普通の江戸大名となった。
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【関が原】もし毛利秀元が吉川広家を振り切り、東軍に突撃していたら・・・・。

 
東軍の圧勝で終わった関が原の戦いですが、 西軍の主な敗因として挙げられるのが 1.小早川秀秋の裏切り 2.西軍武将中の毛利一族のやる気のなさ 3.小早川の裏切りに乗って連鎖反応で裏切った4将 ですが、 この2の、毛利一族のやる気のなさにはあきれ返るばかり。 吉川広家の内通もよく言われていますが、正直一番キーポイントであった 小早川秀秋 15000 の裏切り。 これはしかたないにせよ、 今一人、キーポイントであった毛利家の武将がいたのを忘れてはいけない。 毛利秀元である。 毛利元就の四男であり、穂井田元清の長男でもある彼は、 1579年生まれでありながら、中々の歴戦の勇である。 文禄の役、慶長の役と参陣し、中でも慶長の役では、 右軍の総大将となった。加藤清正、黒田長政、鍋島直茂らと朝鮮軍の籠もる黄石山城を陥落させた後、全羅道、忠清道を平定。天安に陣していたとき、稷山で黒田長政が明軍と交戦中との急報を受けると、即刻救援に駆けつけ明軍の背面より突撃して撃退した(稷山の戦い)という経歴の持ち主である。 このような輝かしい武将がもし、関が原の戦のさい、吉川広家が前方を塞いでいる中激怒し、吉川広家を殺しても東軍と戦うという闘志を見せたなら、歴史は変わったかもしれない。なぜなら彼のいた南宮山という場所は、家康の背後をつける絶好のポジションに位置し、彼の目の前には吉川広家の部隊があるだけで、あとはすぐ家康の部隊3万とぶち当たるだけという場所にあったからである。すくなくてもあの位置から騎馬で駆け下りて、家康のほぼ真横に布陣している井伊直政、そして京極高知あたりを背後からの突撃で粉砕した場合、戦況はずいぶん違ったものになったと思う。 関が原の戦いの資料によれば秀元に配属されていた兵士数は15000である。 石高から算出される兵士数は11000だから、おそらく輝元あたりから不足分を補充してもらったか多めにかき集めたのであろう。 この行動を小早川秀秋が見た場合、一族の身内が東軍を攻撃したという事実を受け止め、考えを改めたかもしれないし、戦況が変わったかもしれない。 しかも、吉川広家を刺し殺したなどと尾ひれがついて秀秋に伝われば、 恐れて西軍というポジションで戦ったのかもしれない。 非常におしい・・・・と思う。
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